「役立たずなりの生き方」2015/12/1


 それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。

(口語訳聖書 ローマの信徒への手紙5章3−4節)

 私が将来牧師になるために神学校に通っていた時分、ある講義この聖書の言葉が取り上げられたことがあった。たしか「組織神学」の講義の時であったと思う。組織神学とはざっくり言ってしまえばキリスト教の教理を体系的に論ずる学問である(哲学との対話や人間の倫理に関する論考を含む場合もある)。

 その講義を担当していた教授のことはK先生と呼んでおこう。私はK先生のゼミに入っていたわけでもないし、特に頻繁に研究室を訪ねたわけでもない。しかし、K先生は大事な時に大事な言葉をくれる人だった。しかもこちらの求めに応えるのではなく、なぜか先生の方からしかるべきタイミングでこちらを呼び止めるのだ。そんな先生だった。だからK先生は私にとっての数少ない恩師の一人である。まあ、先生は私にかけた言葉など覚えていないかもしれない。ともかく、私は勝手に恩師だと思うことにした。

 そんなK先生が講義の中で例の聖書の箇所について話したことがあった。それは組織神学の授業中であったから(つまり聖書の授業ではなかったから)、たぶん雑談というか脱線して話されたのだと思う。難しい話ではなかった。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」という言葉は「その後」を読まないと分からないとのことだった。後にはこう書かれている。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」聖霊を通して神の愛が注がれていればこそ苦難は希望へと至る。その神の愛を見過ごして無謀に苦難を引き受け続けるならば苦難は苦難に終わる。そういう話だったと思う。

 私の神学校時代の後輩であり友であるNはかつてある高校生に対して少し寂しそうに次のような名言をつぶやいたことがあった。「心は鍛えられるもんやないねん。擦り減ってくもんやねん。」私もそう思う。栄えあるブラック企業の社長さんたちには軟弱だと怒られそうな気がするが・・・。

 K先生も若いころにはかなり苦しい道を歩まれたと聞いたことがある。先生が自分でそれを語ることはなかったが。先生もNも「苦難に終わる苦難」があるということを身をもって知っていたのだろう。

 たしかに苦難に終わる苦難もある、しかし神の愛が注がれているところでこそ、苦難は希望へと至ることができる、私はそう語りたい。しかし、何か言葉に詰まってしまう。「じゃあ神の愛ってなんだよ」と思ってしまうからである。

 パウロは同じローマの信徒への手紙8章32節の中で次のように語っている。

「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」

してみると、神の愛とは、神が神の子イエス・キリストを人の救いのために十字架の死に渡されたところの愛、ということになる。つまりは「十字架の愛」だ。

 神の愛は十字架の愛、うん、もう一息な気がする。パウロは神の霊(信じる者の内に住まわれる神のこと)を通して神の愛が注がれていると語っているが、神の霊についてパウロはこう語っている。「同様に『霊』も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、『霊』自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」

 霊が私たちの内にいるということは、その霊を通してキリストが私たちの内にいてくださることを意味している。私たちがうめき、祈りの言葉を失う時、私たちの内でキリストがうめいているのである。これは驚くべきことだ。そしてそのうめきによって、私たちの言葉にならない祈りを神のもとへ届けてくださると言う(ここでいう「執り成し」とは祈りを届けるという意味)。

 あの時、我々はうめいていた、死ぬほどの思いをした、しかしキリストもうめいていたのだ。もし誰かに道行く車が自分をひいてくれないかなと思っていた時があったとしたら、もう終わりにしようと思って屋上にのぼった時があったとしたら、いなくなってしまった大切な人を探しに行って間に合わなかったことを知って泣いた時があったとしたら、キリストもきっと死にそうな顔をしてそこにいたのだ。それが十字架の愛が注がれているということなのだろう。

 そう思うと私はこれまであったろくでもない出来事を少しだけ静かに見つめることができる気がしてくる。苦難が苦難に終わらなかったことを知ることができる。苦難から希望への道が繋がったことを感じる。パウロが希望と呼んでいるのは歴史の終末、神の救いの完成、神の栄光に与る日に対する希望である。私たちの希望は終わりへと向かう。

 そして私たちは確かにこの地上における生を生き抜いていくことができるということを知る。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む、本当にそうなのだ。私はそう信じる。

久居新生教会 牧師 M田真喜人