それから、イエスはまたツロの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通りぬけ、ガリラヤの海べにこられた。すると人々は、耳が聞こえず口のきけない人を、みもとに連れてきて、手を置いてやっていただきたいとお願いした。そこで、イエスは彼ひとりを群衆の中から連れ出し、その両耳に指をさし入れ、それから、つばきでその舌を潤し、天を仰いでため息をつき、その人に「エパタ」と言われた。これは「開けよ」という意味である。すると彼の耳が開け、その舌のもつれもすぐ解けて、はっきりと話すようになった。イエスは、この事をだれにも言ってはならぬと、人々に口止めをされたが、口止めをすればするほど、かえって、ますます言いひろめた。彼らは、ひとかたならず驚いて言った、「このかたのなさった事は、何もかも、すばらしい。耳の聞えない者を聞えるようにしてやり、口のきけない者をきけるようにしておやりになった」。
(口語訳聖書 マルコによる福音書7章31-37節)
両耳に指をさし入れ、つばで舌を潤したことは「おまじない」ではない。目は見えるが耳が聞こえない。話すこともできない。キリストとこの人の間は薄い空気の壁のようなもので隔てられている。だからこそ触る。体に触れることを通してキリストはこの人の魂に触れる。
天を仰ぐとは祈りの姿勢である。「ため息」は言葉にならない祈りである。この「ため息」という言葉は多くの場合「うめき」あるいは「嘆き」と訳される。使徒パウロは同じ言葉を使ってこう述べている。
「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。 」
(口語訳聖書 ローマの信徒への手紙8章26節)
魂の深部においてキリストはあの耳の聞こえない人の「うめき」に触れた。このうめきはキリストご自身のうめきとなった。このうめきは祈りとなった。絞り出すような切なる祈りとなった。
ふとんにくるまって叫んだことはあるだろうか。うめきを絞り出したことはあるだろうか。キリストがそんな風にうめいたと考えたことはあるだろうか。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15章33節)という十字架の上での叫びは、そんなうめきの極致ではないのか。
「エパタ」とはナザレのイエスの肉声をそのまま伝えた言葉である。意味は「開かれよ」。彼の耳は開かれた。そろそろふとんから這い出してもよい頃合いである。