※この文章は主に日曜日の礼拝説教をもとに書き起こしています。
※礼拝では「新共同訳聖書」が使われていますが、教会ウェブサイトでは著作権上の制約のない「口語訳聖書」(改定前)を使用しています。

「大きな祈り」2016/4/13


  さて、彼らがほかの弟子たちの所にきて見ると、大ぜいの群衆が弟子たちを取り囲み、そして律法学者たちが彼らと論じ合っていた。群衆はみな、すぐイエスを見つけて、非常に驚き、駆け寄ってきて、あいさつをした。イエスが彼らに、「あなたがたは彼らと何を論じているのか」と尋ねられると、群衆のひとりが答えた、「先生、おし(※)の霊につかれているわたしのむすこを、こちらに連れて参りました。霊がこのむすこにとりつきますと、どこででも彼を引き倒し、それから彼はあわを吹き、歯をくいしばり、からだをこわばらせてしまいます。それでお弟子たちに、この霊を追い出してくださるように願いましたが、できませんでした」。イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまで、あなたがたに我慢ができようか。その子をわたしの所に連れてきなさい」。そこで人々は、その子をみもとに連れてきた。霊がイエスを見るや否や、その子をひきつけさせたので、子は地に倒れ、あわを吹きながらころげまわった。そこで、イエスが父親に「いつごろから、こんなになったのか」と尋ねられると、父親は答えた、「幼い時からです。霊はたびたび、この子を火の中、水の中に投げ入れて、殺そうとしました。しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」。イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。イエスは群衆が駆け寄って来るのをごらんになって、けがれた霊をしかって言われた、「おし(※)とつんぼ(※)の霊よ、わたしがおまえに命じる。この子から出て行け。二度と、はいって来るな」。すると霊は叫び声をあげ、激しく引きつけさせて出て行った。その子は死人のようになったので、多くの人は、死んだのだと言った。しかし、イエスが手を取って起されると、その子は立ち上がった。家にはいられたとき、弟子たちはひそかにお尋ねした、「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。すると、イエスは言われた、「このたぐいは、祈によらなければ、どうしても追い出すことはできない」。 

口語訳聖書(改定前) マルコによる福音書9:14-29

※口語訳聖書改定後は「口をきけなくする」、「聞くこともさせない」となっています。

 「ああ、なんという不信仰な時代であろう。」父親の訴えには、一見すると非難すべき点はないように思われる。しかし、キリストはこの父親と群衆を「不信仰」と呼んだのである。

 子細に見ると父親の言葉には少し「余裕のようなもの」があることに気付かされる。「お弟子」と言う言葉は原文だと「あなたの弟子」、つまりキリストの弟子である。「あなた」の弟子はできなかったという非難の調子が彼の言葉にはある。次はキリストに「できますれば」と言う。彼は非難と共に、弟子にはできなかったことがキリストにはできるかという関心をもっている。彼の息子は背景に退いてしまっている。

 キリストの怒りと悲しみは、このような父親と好奇の眼差しをもって見守る群衆に向けられたものではないか。あなたの息子はどこにいるのか、息子が苦しんでいるのにあなたは人を非難することに、できるかできないかということに関心を注いでいるのか、息子のことを忘れているのか、あなたは真っ先に救いを求めるべきではなかったか。

 「もしできれば、と言うのか。」ここには人を芯から震え上がらせるようなキリストの透徹した眼差しがある。同時に限りのない慈悲がある。ここにきてようやく父親は自分自身が問題なのだということに気付く。彼は「わたしどもをあわれんでお助けください」と言った。しかし、今彼は「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」と叫ぶ。「わたしども」は「わたし」に変わる。彼は残酷な好奇心から自分自身の不信仰という現実に立ち戻ったのだ。息子は癒されなければならない。しかし、同時に父親こそ救われなければならない。深く病んでいるのは息子ではなく、助けようとしている父親の方なのだ。

 多くの場合、信じないとか、信じたいが迷っていることを聖書は不信仰と呼ばない。聖書が不信仰と呼ぶのは、「自分では信じていると思っている者の中にある不信仰」である。このような不信仰につける薬はない。ただ一つ例外がある。それが祈りである。キリストの祈りである。キリストは真に祈りの人であられた。しばしば山へ行っては一人で祈り、夜を明かされた。人が休憩を取る時間にキリストは祈られた。キリストの祈りはすべてを「含んで」いる。それは大きな祈りなのだ。すべてはキリストの祈りの中にある。信仰を装った不信仰さえも、である。

 自分自身の不信仰に愕然とすることがあるかもしれない。しかし、その不信仰もキリストの祈りの中にある。キリストの祈りは人を我へかえす。不信仰は「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」という信仰の叫びに変わる。キリストの祈りは大きいのだ。キリストの祈りの中で、自分自身が救われるべき罪人であるという現実に立ち戻るのだ。

 あるいは身近な人の不信仰と向き合わなければならない時もあるだろう。その時は思い出してほしい。その人もキリストの祈りに含まれているのだ。そして、あなたは不信仰につける唯一の薬を持っている。キリストの祈りに合わせて祈ることだ。

久居新生教会 牧師 M田真喜人