※この文章は主に日曜日の礼拝説教をもとに書き起こしています。
※礼拝では「新共同訳聖書」が使われていますが、教会ウェブサイトでは著作権上の制約のない「口語訳聖書」(改定前)を使用しています。

「失われた半身」2016/5/11


それから、イエスはそこを去って、ユダヤの地方とヨルダンの向こう側へ行かれたが、群衆がまた寄り集まったので、いつものように、また教えておられた。そのとき、パリサイ人たちが近づいてきて、イエスを試みようとして質問した、「夫はその妻を出しても差しつかえないでしょうか」。イエスは答えて言われた、「モーセはあなたがたになんと命じたか」。彼らは言った、「モーセは、離縁状を書いて妻を出すことを許しました」。そこでイエスは言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、あなたがたのためにこの定めを書いたのである。しかし、天地創造の初めから、『神は人を男と女とに造られた。それゆえに、人はその父母を離れ、ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。家にはいってから、弟子たちはまたこのことについて尋ねた。そこで、イエスは言われた、「だれでも、自分の妻を出して他の女をめとる者は、その妻に対して姦淫を行うのである。また妻が、その夫と別れて他の男にとつぐならば、姦淫を行うのである」。

口語訳聖書(改定前) マルコによる福音書十章一節から十二節

 ここでキリストは離縁を禁じているわけではない。しかし、離縁を勧めているわけでもない。同じ離縁でもやむを得ないものと許されないものがある。結婚生活が互いを損なうことしか意味しなくなった場合、一方がもう一方を暴力によって支配しているような場合、結婚生活を終わらせなければならないこともある。しかし、自分の欲望の赴くままに他の家の者を欲し、そのために離縁をする者は、旧約聖書の精神に従えば「姦淫」(不倫、不貞)を犯すのである。

 ただ、この聖書の箇所について、我々は離縁の問題にあまりこだわらない方がよい。キリストは離縁ではなく「結婚」に目を向けさせようとしているからだ。離縁は許されるかという問題をいくら論じたところで答えは出ない。必要なことは聖書の結婚の精神を理解することである。そうすれば、離縁の問題も自然と正しい方向へ導かれる。

 キリストが思い起こさせようとしていることは、天地創造の際、神が人を男と女とに創造されたこと、そして結婚とは二人が父母を離れて「一体」となることである。一体となるとは「神が合わせた」ということである。「会わせた」ではないことに注意してほしい。ホットサンドを作るときのように「合わせた」のである。それぞれだとただの食パンに過ぎないが、二人で一つのサンドイッチとなる。

 「ふたりの者は一体となる」という言葉は、旧約聖書の創世記二章二十四節からの引用だが、その少し前にはこう書かれている。

「そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。そのとき、人は言った。『これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう』。」
(創世記2章21から23節)

 人のあばら骨を取って女を造ったとは、男性の優位を意味せず、むしろ両者が本質的に対等な存在であることを意味している。結婚とは「失われた半身」同士が結び合わされる出来事なのである。

 愛する者を失った人は、半身を失った人のように生きる。もしくは、片腕を失った人に似ているかもしれない。腕を失った時の傷口は癒える。しかし、腕が新しく生えてくるわけではない。傷は癒えても腕はないままである。

 愛する者に先立たれた人は、毎日をあの人の不在という事実の中で過ごす。失われた片腕を思わずに過ごす日は、死ぬまで一度も訪れないであろう。

 失われた人は戻ってこない。結婚はこれとは逆の出来事である。結婚は失われた半身と結び合わされることである。キリスト教最初期の伝道者パウロは結婚について「この神秘は偉大です」(エフェソの信徒への手紙5章31節)と語っている。だから我々は目の前にある神秘に目を向けなければいけない。

 連れ合いを失った人に、私はかける言葉を持っていない。本当に申し訳ないのだが、今はまだ何も語れずにいる。ただ、家族や友を失ったが、妻や夫を残されている人々には少しだけ語りたいことがある。片腕は戻ってこないが、我々はもう少し、目の前の生きている人に目を向けてもよいのではないだろうか。現に生きている自分の半身に、もう少し目を向けてもよいのではないだろうか。目の前にいる妻や夫は神が与えてくれた神秘なのだ。それを見ることは素晴らしい。

 そう思うと、結婚だけではなく、人生のいたるところに、神秘が散りばめられていることに気付く。生涯の伴侶を失った人にかける言葉はない。傷は癒されても、片腕は戻ってこないからだ。ただ、いつかその人は自分に残されたもの、残された人々について語り始めるように思うのだ。私はその話をただ静かに聴いていたい。

久居新生教会 牧師 M田真喜人