※この文章は主に日曜日の礼拝説教をもとに書き起こしています。
※礼拝では「新共同訳聖書」が使われていますが、教会ウェブサイトでは著作権上の制約のない「口語訳聖書」(改定前)を使用しています。

「いま何が見える?」2016/3/16


 そのうちに、彼らはベツサイダに着いた。すると人々が、ひとりの盲人を連れてきて、さわってやっていただきたいとお願いした。イエスはこの盲人の手をとって、村の外に連れ出し、その両方の目につばきをつけ、両手を彼に当てて、「何か見えるか」と尋ねられた。すると彼は顔を上げて言った、「人が見えます。木のように見えます。歩いているようです」。それから、イエスが再び目の上に両手を当てられると、盲人は見つめているうちに、なおってきて、すべてのものがはっきりと見えだした。そこでイエスは、「村にはいってはいけない」と言って、彼を家に帰された。

口語訳聖書(改定前)
マルコによる福音書8章22-26節

 「何か見えるか」。ここにはひとりの盲人のいやしを喜び、いま何が見えると期待をもって問いかけるキリストの姿がある。「何か見えるか」という言葉には秋の日だまりのような穏やかさがある。

 彼は「二度」いやされなければならない。同じように我々の信仰のまなこも「二度」開かれなければならない。信仰は悲しみによってつぼみをひらく。眼前に新しい景色が広がる。

 いま何が見えるとキリストは問いかける。以前よりも少し悲しく、少し美しい世界が見える。吐き気がするとき、背中をさすってもらうと楽になる。何も見えなかった時、イエスという方が両手を目に置いてくれたことを、忘れることはできない。

久居新生教会 牧師 M田真喜人