(口語訳聖書 マルコによる福音書6章1−6節前半)
キリストの弟子の一人にペトロという人がいる。この人はキリストが十字架に架かる前に「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と断言した人である。これに対しキリストは「あなたは、今日、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と言われた。
ペトロは捕えられたキリストを救い出そうと追いかけた時に正体がばれて、あなたもあのナザレのイエスの仲間ではないかと問い詰められ、三度キリストを知らないと言った。そして、鶏が鳴いた。ペトロはその時、キリストの言葉を思い出して泣いた。
ペトロはキリストが復活された後に立ち直り、力強い説教をして教会の創生期を彩る一人となった。しかし、これは私の想像であるが、ペトロもいくら説教しても全く聴衆に自分の言葉が響かないという経験をしたはずだ。彼がいかに素晴らしい神の言葉を語ったとしても、どうせあの負け犬だろう、あの時逃げ出したやつだろうと白い目を向けられたことがあったと思う。ただ、きっとその時ペトロはあの出来事を思い出したはずなのだ。主イエスもそうだったなあと。大工の語る神の言葉などいらないと拒絶された時のことを。
しかし、それがすべてではない。「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである。」そう、これは例外的なケースなのだ。私は悪いことが一あるとそれを八か九くらいに引き伸ばして考えてしまう。しかし、本当はごく一部に過ぎない。
あなたもきっと白い眼で見られ、軽蔑の眼差しの中で心を凍らせてしまうことがきっとある。しかし、それはすべてではない。私にはキリストがそう語りかけているように聞こえる。
だから、最悪な出来事が起こって、最低な気分の時には思い出したいと思う。これがすべてではないということ、そしてキリストもあの白けた視線のただなかに身を置かれたいうことをだ。そうすればきっと、もう一度歩みだすことができる。