客に招かれた者たちが上座を選んでいる様子をごらんになって、彼らに一つの譬を語られた。「婚宴に招かれたときには、上座につくな。あるいは、あなたよりも身分の高い人が招かれているかも知れない。その場合、あなたとその人とを招いた者がきて、『このかたに座を譲ってください』と言うであろう。そのとき、あなたは恥じ入って末座につくことになるであろう。むしろ、招かれた場合には、末座に行ってすわりなさい。そうすれば、招いてくれた人がきて、『友よ、上座の方へお進みください』と言うであろう。そのとき、あなたは席を共にするみんなの前で、面目をほどこすことになるであろう。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。また、イエスは自分を招いた人に言われた、「午餐または晩餐の席を設ける場合には、友人、兄弟、親族、金持の隣り人などは呼ばぬがよい。恐らく彼らもあなたを招きかえし、それであなたは返礼を受けることになるから。むしろ、宴会を催す場合には、貧乏人、不具者、足なえ、盲人などを招くがよい。そうすれば、彼らは返礼ができないから、あなたはさいわいになるであろう。正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう」。
(口語訳聖書 ルカによる福音書14章7-14節)
キリスト信徒になるということは、キリストへの恩返しに生きるようになるということである。恩返しには終わりがない。親に対する恩返しでも同じである。恩返しには完済というものが存在しない。恩返しは一生続く。
そもそも恩とは無償で贈与されたもののことをいう。無償でなければ単なる取引の産物にすぎない。恩なるものが人の心を静かに暖めるのは、無償の贈物であるがゆえである。
キリストはご自身の「いのち」を私達に手渡される。聖書の言葉において、魂の路傍で、人はキリストに出会う。キリストが十字架の上で死なれたのは、ご自身のいのちを差し出すためであった。人は十字架の前でキリストのいのちを受け取るのだ。
今日の聖書の言葉では「貧しい人、体の不自由な人」について、「お返しができない」と言われている。ただ、お返しができないのは貧しい人、体の不自由な人だけではない。誰もキリストのいのちに値するものをキリストにお返しすることはできない。
キリストから受けた恩を完済することはできない。しかし、恩に報いて生きていくことはできる。聖書が語る謙虚、へりくだりというものも、この道の先にあるのではないだろうか。人生は恩返しの旅である。