※この文章は主に日曜日の礼拝説教をもとに書き起こしています。
※礼拝では「新共同訳聖書」が使われていますが、教会ウェブサイトでは著作権上の制約のない「口語訳聖書」(改定前)を使用しています。

「お腹が痛い」2016/2/24


 そのころ、また大ぜいの群衆が集まっていたが、何も食べるものがなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない。もし、彼らを空腹のまま家に帰らせるなら、途中で弱り切ってしまうであろう。それに、なかには遠くからきている者もある」。弟子たちは答えた、「こんな荒野で、どこからパンを手に入れて、これらの人々にじゅうぶん食べさせることができましょうか」。 イエスが弟子たちに、「パンはいくつあるか」と尋ねられると、「七つあります」と答えた。そこでイエスは群衆に地にすわるように命じられた。そして七つのパンを取り、感謝してこれをさき、人々に配るように弟子たちに渡されると、弟子たちはそれを群衆に配った。また小さい魚が少しばかりあったので、祝福して、それをも人々に配るようにと言われた。彼らは食べて満腹した。そして残ったパンくずを集めると、七かごになった。人々の数はおよそ四千人であった。それからイエスは彼らを解散させ、すぐ弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方へ行かれた。

口語訳聖書(改定前) 
マルコによる福音書8章1-10節

 「この群衆がかわいそうである。」新約聖書は古代のギリシャ語で書かれている。「かわいそう」という言葉はほとんどの場合「憐れみ」、まれに「愛」と訳される。語源となっているのは「はらわた」という言葉である。

 文語訳聖書のエレミヤ書に次のような一節がある「我膓かれの為に痛む我必ず彼を恤れむべし」。我がはらわた彼のために痛む、我彼を必ずあわれむべし。神がイスラエルの民について語った言葉。我がはらわた痛む、さらに心に血と書いて憐れみと読む。

 「かわいそう」とは同情を表していない。同情をする者の心は痛まない。キリストは腹を痛める。心で血を流す。飢えた人々が目の前にいる。

 新約聖書の時代より、日本では飢えている人が減った。しかし、魂の飢えている人、心で血を流している人はむしろ増えているのかもしれない。

 見捨てられた人がいる。役立たずの烙印を押された人がいる。その傍らにキリストがおられる。腹を痛め、心で血を流している。自分にできることはほとんどない。イエス様ごめんなさい。よろしくお願いしますと言うだけだ。それからその人のところへ出かけようと思う。

久居新生教会 牧師 M田真喜人