※この文章は主に日曜日の礼拝説教をもとに書き起こしています。

「神の宝」2016/1/27


 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた、「あなたがたはみんな、わたしの言うことを聞いて悟るがよい。すべて外から人の中にはいって、人をけがしうるものはない。かえって、人の中から出てくるものが、人をけがすのである。イエスが群衆を離れて家にはいられると、弟子たちはこの譬について尋ねた。すると、言われた、「あなたがたも、そんなに鈍いのか。すべて、外から人の中にはいって来るものは、人を汚し得ないことが、わからないのか。それは人の心の中にはいるのではなく、腹の中にはいり、そして、外に出て行くだけである」。イエスはこのように、どんな食物でもきよいものとされた。さらに言われた、「人から出て来るもの、それが人をけがすのである。 すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである」。

(口語訳聖書 マルコによる福音書7章14-23節)

 「群衆に」語りかけた。それがこの話の肝ではないか。「群衆」はおそらく、「手を洗わない」群衆として言及されている。

 少し前の聖書の箇所で、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、キリストの弟子の中に手を洗わずに食事をする者がいることを見咎めた。ユダヤ教において食事の前に手を洗うのは「宗教的な汚れ」を防ぐためである。「不衛生なよごれ」を落とすためではない。

 旧約聖書には「汚れた生き物」が記されている。市場などに出かけると、知らず知らずの内に汚れた動物の肉に触ったり、血を踏んでしまう可能性がある。だから食事の前には丁寧に手を洗ったのである。

 汚れは触れることでうつると考えられた。手を洗わない者は「汚れた者」とされる。弟子たちのすぐ後で「群衆」に言及されるのは、彼らが弟子たちの一部と同様に、ファリサイ派や律法学者から「この汚れた群衆」と横目で見られていたからであろう。

 「群衆に」キリストは語った。

 「すべて、外から人の中にはいって来るものは、人を汚し得ない」

 単にファリサイ派の人々を非難するためでも、外面の汚れより内面の醜さの方が問題だという一般論を語ろうとしたのでもない。

 「あなたは汚れていない」と語りかけたのだ。

 「宗教的な汚れ」は「神から離れること」、「神の宝であることをやめること」と同じであるとみなされた。汚れた者は神から見離された者とみなされた。

 神から離反したと思われている人々にキリストは「あなたは汚れていない」と語った。あなたは今も神の宝であるということを語った。

 どこかで自分は汚されてしまった、損なわれてしまったと思ってはいないだろうか。この世の凡庸な地獄を味わう中で、圧倒的な暴力に蹂躙される中で、病が心と体を覆い尽くしていく中で、自分は汚れてしまったと思ってはいないだろうか。でも、あなたは汚れていない。

 それは罪がないということではない。そんなことは断じてない。しかし、汚れてはいないのだ。

 「あなたは汚れていない。何ものもあなたを汚すことはできない。」

  あなたは今も神の宝だからだ。

 「すべて、外から人の中にはいって来るものは、人を汚し得ない。」



久居新生教会 牧師 M田真喜人