「暁に生きる」2016/1/7


はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。

(口語訳聖書 創世記1章1-5節)

 何年か前まではこの聖書の言葉をプラネタリウムに座っているような心持で読んでいた。宇宙空間に浮かんでいる自分、そこに「光あれ」という言葉が響く。

 今は違う。この言葉は中空からではなく、「深淵」と「水」の底から語られている。あの地震と津波がやってきてから、そう考えるようになった。

 著者は深淵の底に身を横たえている。大地の裂け目のような、果てしのない海溝のような深みだ。大水が彼(あるいは彼女)を超えていく。しかし、彼に聞こえるのは混沌のような濁流にも関わらず、水中のこつんこつんという静かな音だ。

 彼は水の底に身を横たえて、ただ茫漠とした思いで水面(みなも)を眺めている。「神の霊」が水の面を動いている。しかし、霊は彼のもとまで届かない。救いは水の底に届かない。

 言が響きわたる。「光あれ。」こうして光があった。彼は水面を通過して自分に到達する光を見、肌で感じた。絶え入るほどに求めた光である。この光のなんと温かく静かな希望に満ちあふれていることだろうか。光には彼の求めたすべてが含まれていた。

 「夕となり、また朝となった。第一日である。」世界は夕闇からはじまる。朝は最後にやって来る。最良のものは最後に実現する。闇の時代の終わりに、人生の最後に、世の終わりにうるわしき朝はやって来る。私たちは暁(あかつき)に向かって生きる。新しい日がはじまる。


久居新生教会 牧師 M田真喜人