※この文章は主に日曜日の礼拝説教をもとに書き起こしています。
※礼拝では「新共同訳聖書」が使われていますが、教会ウェブサイトでは著作権上の制約のない「口語訳聖書」(改定前)を使用しています。

「太古の海」2016/5/4


 また、わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかによい。もし、あなたの片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろったままで地獄の消えない火の中に落ち込むよりは、かたわになって命に入る方がよい。もし、あなたの片足が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両足がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片足で命に入る方がよい。もし、あなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出しなさい。両眼がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入る方がよい。地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。 人はすべて火で塩づけられねばならない。塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、何によってその味が取りもどされようか。あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい」。

口語訳聖書(改定前) マルコによる福音書9:42-49

 人を「つまずかせる」とは、その人と神との関係を壊すこと、信仰の道を頓挫させることである。そして、人をつまずかせる者は、実は自分自身がつまずいている。神との関係が歪んでいる。だからこそ、人をつまずかせることができるのだ。厄介なことに、我々は人をつまずかせるとき、自分自身がつまずいていることに気付いていない。

 自分のつまずきは、神と自分との「本当の関係」を見失うことから始まる。だがすでに、神との関係はキリストの成し遂げた救いによって回復されたのだ。十字架で死なれたキリストに目を注ぐ。すると、その傍らには満ち足りた自分がいる。もうこれ以上何もいりませんと、充足している。「片手を切り捨てる」とは、この充足に再帰することなのだ。

 まことの充足を知る人は、人を変えようとはしない。人を変えようという欲が後退してしまうからである。そして、人を変えようとしない人こそが、人の心を動かすことができる。これが「自分自身の内に塩」を持つ人である。

 また、まことの充足を知る人は、「火のような試練」を焼け焦げになってくぐり抜けてきた人でもある。その人は人間の悲しみの深みを知っている。

 キリストをに目を注ぐ。心を向ける。そこには充足し、同時に悲しみの涙を流している者がいる。それは自分自身である。自分自身を見ようとするとき、そこに自己はない。あるのは自己像、あるいは自己の虚像だけである。イエスという方を見る時、我々はその足元に自分自身の姿をも見出す。充足し、涙を流している。太古の海のように満ち足りて揺らぎ、悲しみを湛えている。

久居新生教会 牧師 M田真喜人