「『聖書のはなし』のコンセプトについて」2016/1/13

今回は聖書の話ではなく、「聖書のはなし」のコンセプトを説明したいと思う。次週からはまた聖書の話に戻る。

 そもそもこの聖書についてのエッセイのようなものを始めたのは、それまで更新していたブログをやめることにしたからである。教会には日曜日の礼拝の式次第を掲載した「週報」なるものが存在するが、私は毎週その週報の裏にキリスト教に関する基礎的な知識や、教会の歴史についての文章を掲載していた。その文章をコピーアンドペーストしたものが従来のブログだったわけだ。名前は「教会あれこれ」であった。

 「教会あれこれ」は私独自の見解というより、『キリスト教史』(フスト・ゴンザレス著、石田学・岩橋常久訳)という書物のまとめや要約に近かった。人の書物の要約をブログとして掲載し続けるのは、たとえ参考文献を明記したとしてもあまり気持ちの良いものではない。そこで最近は仕事も落ち着いてきたことだし、日曜日の礼拝説教でも掲載してみようかと考えた。教会の役員会に諮り、新しいブログを始めることとなった。

 「聖書のはなし」を始めた当初から「説教の全文」を掲載するつもりはなかった。説教原稿をパソコンで作成しているのであれば、コピーアンドペーストすればよいだけである。(このブログを読んでいる方でパソコンには明るくない方がいるとすれば、コピーアンドペーストとは「ボタン一つで済む」ことだと理解していただきたい。)しかし私の場合、説教原稿を手書きで作成するのでコピペができない。まあ、できたとしてもしたくはない。

 説教原稿というものは肉声で説教が語られ、耳で会衆に説教が聴かれるために作成される特殊な情報媒体である。基本的に説教原稿というものは「黙読」を想定して書かれてはいない。牧師が自分で説教をしやすいように書かれている。つまり、何が言いたいのかというと、説教原稿はそのまま文章にされてしまうと本来の「味」をかなりの程度失ってしまうということだ。したがって、耳で聴かれるのでなく、ウェブ上で黙読されるとなると全文を書き直さざるを得ない。メディア(情報媒体)が全く違うのである。私のこだわりとしては要約でも要旨でもだめだ。メディアが変われば内容も形式も変えて語りなおす必要がある。

 さて、ずいぶん長くなったがここまでが前置きである。実際に「聖書のはなし」を始めてみて考えさせられることが一つあった。牧師はどのように「神の言葉」に触れているのかということである。

 キリスト信徒にとって日曜日の礼拝の説教は生命力の源泉である。忍耐強い信者も不誠実な説教には忍耐できなかったりする。たまには真実に触れる説教を聴かなければ、心が萎えてしまうのである。しかし、牧師はどうなのだろうか。一見すると、牧師は説教を語る側にあり、聴く側にはいない。では牧師はどのように神の言葉に養われるのか。

 牧師を養成する学校を神学校と呼ぶが、私が神学校にいた時分、教授が語っていたのか、神学生が語っていたのかは忘れたが、次のように言われていたのを思い出す。曰く、牧師は説教準備において神の言葉に養われる、と。

 教会とは関わりのない友人に「牧師って平日何してるの?」と聞かれるときがある。私は「日曜日の話の準備と信者の方に対するケアと事務」と答える。すると「日曜日の話しって何?」と言う具合に半ば定型化した応答が繰り返されることになる。まあそれはいいとして、とにかく牧師は日曜日に向けて平日は説教の準備をしている。黙想(聖書の暗唱・味読・精読のこと)、聖書研究、黙想、説教原稿作成、推敲という具合にだ。

 牧師はその準備の過程で聖書の言葉の真理に触れ、養われるという。本当にそうだろうか。私は少し違うのではないかと思っている。おそらく、例の教授か神学生の言葉は事柄の本質の半分しか表現していない。

 「聖書のはなし」を書き始めて、説教を語りなおし始めて直観的に分かったことは、「私も説教を聴いているんだ」ということである。牧師になる前と同じように、説教を必要とし、説教を聴いているのだということである。だから、牧師は説教の準備においてだけ聖書の言葉に養われているのではない。日曜日の後にも語られた説教の言葉によって養われているのである。

 やっと結論に辿りついた。「聖書はなし」のコンセプトは、牧師の説教の牧師による要約ではない。会衆と同じように一人の人間として、説教を聴いた者による説教の語りなおしである。

 私の父は埼玉の大宮に住んでいた頃からの友人たちと、私の家族で宴会をしている時に、「よきサマリア人」(新約聖書ルカによる福音書10章25-37節)についてのある牧師の説教を、まるで自分で考えた説教であるかのように得意気に語りなおしていた。私が「聖書のはなし」でしているのは、その時父がしていたことと基本的には同じである。

 一人の牧師として人が喜んで語りなおしてくれるような説教をする。それが私の夢である。そんなことを考えながら「聖書のはなし」を更新している。

久居新生教会 牧師 M田真喜人