※この文章は主に日曜日の礼拝説教をもとに書き起こしています。
※礼拝では「新共同訳聖書」が使われていますが、教会ウェブサイトでは著作権上の制約のない「口語訳聖書」(改定前)を使用しています。

「一杯の水」2016/4/27


 ヨハネがイエスに言った、「先生、わたしたちについてこない者が、あなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちについてこなかったので、やめさせました」。イエスは言われた、「やめさせないがよい。だれでもわたしの名で力あるわざを行いながら、すぐそのあとで、わたしをそしることはできない。わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である。だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう。

口語訳聖書(改定前) マルコによる福音書9:38-41

 キリストの名前を使って悪霊を追い出す者がいた。当時は悪霊払いを生業とする者がいたそうであるが、彼も商売のためにキリストの名を利用していたのであろうか。おそらく、そうではない。すぐ後で「水一杯でも飲ませてくれるもの」と言われているからである。キリストの名前によって悪霊を追い出していた人は、必要とあらばキリストの弟子たちに一杯の水を、当時は貴重であった水を差しだしてくれる人だったのだと思う。

 彼はキリストの名を悪用していたわけではなく、「事情があって」キリストについていくことができなかったのであろう。だから、キリストの弟子にも喜んで大事な水を差し出すのである。

 私は一杯の水をくれた友のこと、恩人のことを思う。私が病気をし、心も病み果てていた時、「明日会えるかな」と言ってくれた人がいた。他の場面で他の人が語れば、大した意味はない言葉だったかもしれない。けれども、その人のその言葉にはすべてが詰まっていた。例えば「明日まで生きていてほしい」、「おれはお前を忘れていない」というような。結局次の日私は寝坊をし、会うことはできなかった。しかし、その時の言葉を忘れることはないと思う。それは私に必要な一杯の水だったのだ。

 当人は水をくれたことなど忘れているかもしれないが、キリストは覚えている。キリストはその人を見ている。私はそのことを喜ばしく思う。

久居新生教会 牧師 M田真喜人