※この文章は主に日曜日の礼拝説教をもとに書き起こしています。
※礼拝では「新共同訳聖書」が使われていますが、教会ウェブサイトでは著作権上の制約のない「口語訳聖書」(改定前)を使用しています。

「捨てて得る命」2016/3/23


 それから群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。邪悪で罪深いこの時代にあって、わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう」。また、彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。神の国が力をもって来るのを見るまでは、決して死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。

口語訳聖書(改定前) 

マルコによる福音書8章34節−9章1節

 「群衆」が弟子たちと共に呼び寄せられる。特別な人が問題なのではない。イエスという方に従い行こうとするすべての人が問題なのである。自分を捨て、自分の十字架を背負って生き、そして死ぬこと。イエスという方のために生き、イエスという方のために死ぬこと、それが問題なのである。

 「自分を捨てる」とは「自分の命」を捨てることである。しかし、それはすぐに死んでしまうということではない。イエスという方のために生き、そして死ぬということ、それが自分を捨てるということである。

 キリストに従い行く者は自分の命をキリストに差し出す。キリストはその人の十字架を差し出す。これは病や、心の傷や、福音のために重い使命を負うことを意味するばかりではない。この十字架はその人がはりつけにされるところの十字架である。つまり、自分の十字架を背負って生きるとは、自分の墓標を背負って、死に向かって生きることなのである。

 殉教者だけが問題なのではない。すべての者が問題なのだ。すべて、イエスという方に従い行こうとする者は、死に向かって生きているからである。

 キリストに命を差し出す。キリストはその人の十字架を差し出す。この交換は酷であろうか。そうではない。こう言われている。

 「人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来るときに…」

 「神の国が力をもって来るのを見るまでは、決して死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる。」

 キリストはやがて終わりの日に、もう一度来られる。その時、我々はイエスという方にお会いするのだ。その時我々は、この方のために生きた命が、この方のために死んだ命が、この方の前に保たれ、回復され、新たにされていることを見る。自分を捨てるとは、自分の命を捨てることであり、また真の命を得ることである。

 イエスという方のために生き、死ぬ。そのことに理由があるとすれば、それはこの方自身が我々のために十字架を背負い、死なれたということの他にはない。それだけで十分なのだ。

久居新生教会 牧師 M田真喜人