「娘よ、達者でな」2015/11/14

 イエスはその女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」。

(マルコによる福音書5章34節)

 これはキリストがある女性に語った言葉である。この女性は「十二年間も出血が止まらない」病気を患っていた。この出血は月経の異状によるものであろう。旧約聖書において「血に触れた者は汚れる」とされている。そのため月経期間中の女性は隔離され、家族と一緒に食事をすることができなかった(現在のユダヤ教においては事情が少し違うかもしれないが、私は詳しく知らない。キリスト教は旧約聖書を聖典とするが血に触れた者が汚れるとは考えない。)。

 例の女性の場合は出血が十二年間も続いてしまっている。このことは彼女が病気に苦しんだだけではなく、宗教的に汚れた者と見なされてきたこと、人と普通に接することが許されなかったことを意味している。

 彼女は多くの医者にかかったが病気は治らずむしろ悪くなり、治療のために全財産を失った。そんな折にナザレのイエスという人物が群衆に取り囲まれながらやってきた。彼は方々で奇跡や癒し、悪霊払いを行っているという。彼女は群衆の中に紛れ込み、藁にもすがる思いでキリストの服に触れようと手を伸ばした。そしてその手は確かに彼の服に触れた。

 その瞬間彼女の病気は癒され、キリストは「自分の内から力が出ていったこと」(マルコ5:20)を感じた。

 現代人の多くはは「力が出て行った」という言葉に違和感を覚えるだろう。色々とこのことについて思案もできるが、ここでは一つのことが分かればよいと思う。つまり、キリストの癒しや奇跡というのは何の「代償」もなく行われたものではなかったということだ。

 彼は何の痛みもなく人々を癒したわけはなかった。そこではいつも力が流れ出していた。あの女性の体から十二年間血が流れ出していたように、キリストの内からはいつも「力」が流れ出していた。キリストのこの道の果てに十字架が立っている。それは墓標のようでもあり、また王座のようでもある。いずれにせよ、キリストはその十字架の上で、人の救いのために自分のすべての力と命を差し出したのである。

 キリストは自分の服に触れた女性を群衆の中に探し求めた。それは自分の力を取ったことを咎めるためではない。なお彼女に対してなすべきことがあったからだ。それは彼女に出会い、「御言葉をもって新しい生涯へ送り出す」ためであった。

 「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

 この世の地獄の中から必死で手を伸ばしたことを、キリストは「あなたの信仰」と言った。そしてその信仰があなたを救ったのだ、だからこれからは新しい生涯を生きなさいと言われる。

 「元気に暮らしなさい。」この言葉は口語訳聖書(新共同訳聖書より一つ古い翻訳)では次のように書かれていた。

「達者でいなさい。」

 時代劇で使われそうな言葉だ。だが心を惹く言葉だ。ここには田沢湖のように深いキリストの思いが込められている。この言葉をたずさえて、きっとあの女性は新しい生涯を生きたのだろう。そう思う。

久居新生教会 牧師 M田真喜人