※この文章は主に日曜日の礼拝説教をもとに書き起こしています。
※礼拝では「新共同訳聖書」が使われていますが、教会ウェブサイトでは著作権上の制約のない「口語訳聖書」(改定前)を使用しています。

「隠れたキリスト」2016/4/20


 それから彼らはそこを立ち去り、ガリラヤをとおって行ったが、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは、イエスが弟子たちに教えて、「人の子は人々の手にわたされ、彼らに殺され、殺されてから三日の後によみがえるであろう」と言っておられたからである。しかし、彼らはイエスの言われたことを悟らず、また尋ねるのを恐れていた。

それから彼らはカペナウムにきた。そして家におられるとき、イエスは弟子たちに尋ねられた、「あなたがたは途中で何を論じていたのか」。彼らは黙っていた。それは途中で、だれが一ばん偉いかと、互に論じ合っていたからである。そこで、イエスはすわって十二弟子を呼び、そして言われた、「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」。そして、ひとりの幼な子をとりあげて、彼らのまん中に立たせ、それを抱いて言われた。「だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そして、わたしを受けいれる者は、わたしを受けいれるのではなく、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである」。

口語訳聖書(改定前) マルコによる福音書9章30-37節

 この時代、「子ども」は愛され、受け入れられるべき存在とは考えられていなかった。こどもはむしろ「邪魔者」の典型であった。だから、キリストが幼子を受け入れなさいと言うのは、「受け入れがたい者」を受け入れなさいということなのである。

 受け入れがたい者をキリストの名の故に受け入れる、それが「人に仕える」ということである。我々にとって受け入れがたい存在は子どもでない場合の方が多いだろう。その人の顔を思い浮かべることができるはずである。納得できなくともよい。キリストの名の故に受け入れればよい。主がおっしゃるならばと受け入れればよい。キリストはそれ以上のことを求めてはいない。

 受け入れがたき者を受け入れる時、我々に不思議なことが起こる。その時、我々はキリストをも受け入れるのである。キリストの心に触れるのである。その人を受け入れる時、キリストご自身がその人を受け入れていたことを知るのである。

 キリストはいつも見つかりにくいところに隠れておられる。受け入れがたい人から目をそらし続ける必要はない。キリストはその人のかげに隠れておられるからだ。

久居新生教会 牧師 M田真喜人