「罪を悲しむ」
2016/1/20

 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。ーファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。ーそこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。

『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』

あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。 それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」

(マルコによる福音書7章1-13節)

 何度もこの箇所を読む内に、キリストの怒りが気になり始めた。この怒りは私の怒りとは違う。どこか異質なのだ。それが気になる。

 私は自分が侮辱されたときに怒る。また、家族や友人が馬鹿にされたら怒る。しかし、キリストは神のことについて怒っている。「神の掟を捨てて」、「神の掟をないがしろにした」、「神の言葉を無にしている」。神の掟と言葉をないがしろにすることは、神をないがしろにすることである。

 キリストの怒りはあまりにも自然な父なる神への愛に根差している。この愛はキリストにとって鼻歌のように自明なものであり、私にとって全く想像が及ばないほどに異質である。私に知ることが許されているのは、私がその深さを知り得ないということだけである。

 愛に根差した怒りには悲しみが伴なう。イエスという方の燃えるような眼差しの中にある悲しみを見る時、心の片隅の凝り固まった部分がざわつき始める。悲しみが伝播する。取り返しのつかない過ち、人を人として扱わなかった記憶が頭をもたげ始める。そして悲しくなる。

 自分自身をいくら見つめても、自分の罪は分からない。イエスという方の怒りに身をさらし、悲しみに射抜かれる時、私たちは初めて己が罪を悲しむ者となる。


久居新生教会 牧師 M田真喜人