※この文章は主に日曜日の礼拝説教をもとに書き起こしています。
※礼拝では「新共同訳聖書」が使われていますが、教会ウェブサイトでは著作権上の制約のない「口語訳聖書」(改定前)を使用しています。

「空き家にそそぐ光」2016/5/18

 もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。

わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」。イスカリオテでない方のユダがイエスに言った、「主よ、あなたご自身をわたしたちにあらわそうとして、世にはあらわそうとされないのはなぜですか」。イエスは彼に答えて言われた、「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は、わたしの言葉ではなく、わたしをつかわされた父の言葉である。

これらのことは、あなたがたと一緒にいた時、すでに語ったことである。しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。『わたしは去って行くが、またあなたがたのところに帰って来る』と、わたしが言ったのを、あなたがたは聞いている。もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるであろう。父がわたしより大きいかたであるからである。今わたしは、そのことが起らない先にあなたがたに語った。それは、事が起った時にあなたがたが信じるためである。わたしはもはや、あなたがたに、多くを語るまい。この世の君が来るからである。だが、彼はわたしに対して、なんの力もない。しかし、わたしが父を愛していることを世が知るように、わたしは父がお命じになったとおりのことを行うのである。立て。さあ、ここから出かけて行こう。

口語訳聖書(改定前) ヨハネによる福音書十四章十五節から三十一節

 この言葉はイエス・キリストが十字架刑によって死ぬ前に語った「告別説教」である。「遺言」とも呼ぶことが出来よう。

 キリストは弟子たちに、あなたがたを「孤児」にはしておかない、と約束している。弟子たちはキリストが十字架の上で死なれてから三日間、ある意味で「孤児」となった。彼らは魂の拠り所を失った。生命の基盤を喪失した。キリストは彼らの根であった。彼らは根から切り離され、地上をさまよう者となった。

 しかし、キリストは約束通り帰って来た。今度は「助け主」、「聖霊」において。聖霊とは見えざる神の息吹であり、また神ご自身の名である。かつてキリストは一人の人間として、弟子たちと共に地上を生きた。しかし、再会の時には「内に住まう方」として来られた。

 人間は心の中にたくさんの部屋を持っている。キリストが死なれた時、弟子たちの中に空き部屋ができた。むしろ、心全体が一つ空き部屋になってしまったと言った方がよいかもしれない。聖霊はキリストがかつておられたところにそのまま居を構えるのではない。もっと大きな、心と体と存在のすべてを満たす。空き部屋は空き部屋のままである。キリストを失った悲しみが消えるわけではない。しかし、今や、復活と聖霊降臨の光が空き家を包んでいる。その光の中で、弟子たちは確かにキリストが帰ってこられたことを、知ったのである。同じ一つの霊を受けたのである。

 キリストは遺言の中で、一つの「掟」を弟子たちに残した。それは互いを愛することである。廃屋に光が注ぐその場所で、掟は鼓動を打ち始める。互いに愛することが始まる。我々は目の前にいる人の内に、聖霊においてキリストと父なる神がおられるのを見る。キリストがその人の内に充ち満ちているのを見る。

 互いを愛するとはベタベタと仲良くし、傷を舐め合うことではない。互いの内にキリストを見、驚きつつ敬意を抱くことである。キリストの掟に生きる共同体は強い。陰府の力もこれに対抗することはできない。

久居新生教会 牧師 M田真喜人